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| 苦労の末念願のスーパーボウル・リングを手にした、バッカニアーズQBブラッド・ジョンソン |
幾度となくスターダムを追われたプロフットボール人生。しかしそのたびに、ブラッド・ジョンソンははい上がってきた。「僕は何があっても生き残る」ジョンソン自らが語ったその言葉は、まさに彼の生き様そのものだった。
フロリダ州立大では3年時の90年、ポジションをチームメイトのケイシー・ウェルダンに奪われ、その後彼のバックアップとして大学生活を終えた。迎えた92年のドラフト、ウェルダンは4巡目でイーグルスに指名されたが、ジョンソンが自分の名を呼ばれるのはそれよりずっと後、9巡目のミネソタ・ヴァイキングスの指名権まで待たねばならなかった。
大学フットボールの補欠QBは、当然のようにプロ入りしてからもベンチを温め続けた。初めてフィールドに立ったのは3年目の94年、翌95年はヨーロッパに渡り、ワールドリーグ(現NFL欧州)のロンドン・モナークスでプレイ経験を積んだ。待ち続けた末、96年にようやくチャンスが巡ってくる。ヴァイキングスの先発QB、ウォーレン・ムーンの負傷欠場の間、8試合に先発出場を果たしたのだ。そして97年、ジョンソンはプロ6年目にしてようやく念願のエースQBの座を手にする。
しかし、ヴァイキングスでの栄光は、1シーズンにも満たなかった。シーズン終盤のパッカーズ戦、首を負傷し、シーズン残りを棒に振ってしまう。翌98年も開幕2週目に脚を骨折、代わって先発出場しリーグ1位のパス成績を残す活躍を見せたランドール・カニングハムにあっさりと主役の座を奪われてしまう。カニングハムをエースに据えたヴァイキングスはシーズン終了後、ジョンソンをワシントン・レッドスキンズへトレードした。
追われた形のジョンソンは、その悔しさを自らのプレイで拭った。移籍1年目の99年、ジョンソンは自身初めてのパス4000ヤードをマークし、プロボウルに選出される活躍を見せたのだ。屈辱をバネに、スターQBへの仲間入りを果たしたジョンソン。しかし間もなく、ジョンソンはレッドスキンズにも追われることとなる。
レッドスキンズのオーナー、ダニエル・スナイダーは、2000年オフに獲得したジェフ・ジョージの強肩が常にお気に入りだった。レッドスキンズ入りしてわずか2年、2001年オフにフリーエージェント権を得たジョンソンは、ジョージをエースQBに指名したチームから引き留められることなく、再度移籍を強いられたのだった。
バッカニアーズでの2年目のシーズンを迎えた2002年。バッカニアーズは新ヘッドコーチにオフェンスの天才と名高いジョン・グルーデンを迎える。シーズン当初はグルーデンの指揮するウェストコーストの遂行に苦しんだジョンソンだったが、一度その戦術が浸透してくると、チームは勢いに乗った。11月以降の6試合で、ジョンソンはTD数15に対し、インターセプトはわずかに1個。抜群の安定感でチームを上昇気流に導いたのだ。
その後、レギュラーシーズン最後の2試合を、ジョンソンは腰痛のため欠場する。ジョンソンを欠いたチームは、1試合平均でわずか1TDしかあげられず、その苦戦ぶりは明らかだった。
しかし、プレイオフの舞台にジョンソンは帰ってきた。そしてこれまで1勝3敗と不甲斐ない成績しか残せていなかったポストシーズンでも見事チームを勝利に導き、スーパーボウル優勝の美酒を味わったのだ。
「ブラッド・ジョンソンがいてのこそのバッカニアーズのオフェンスなんだ。彼はボールを投げ分け、正しい判断をする。彼がいないと、オフェンスは機能しないんだ」昨季のNFC決勝でバッカニアーズに敗れたイーグルスのCBボビー・テイラーは語る。その言葉通り、ジョンソンは今や、バッカニアーズにとって欠かすことのできない選手となった。もうジョンソンが、追われることはない。彼は「生き残った」のだ。 |