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1994年8月8日、東京ドームで開催された第6回アメリカンボウル。カンザスシティ・チーフスとミネソタ・ヴァイキングスが対戦したこの試合に参加するため、現ニューヨーク・ジェッツヘッドコーチのハーマン・エドワーズは、チーフス守備バックコーチとして日本に来てたって知ってる?
実はこの年が、エドワーズのコーチ人生の最後の年、となるはずだった。翌95年に、エドワーズはコーチ業から足を洗い、チーフスのスカウトになった。将来の夢は、ヘッドコーチからジェネラルマネジャー(GM、球団の選手獲得やコーチ招聘など、すべてをとりしきる重役)に変わっていたんだ。その予定通りになっていれば、今年の夏にエドワーズがジェッツの指揮官として、再び東京ドームにやってくることもなかった、ってことだ。
でも、物事はそうそう予定通りに進むわけじゃない。エドワーズの予定を狂わせた原因は、94年よりも前に、すでにエドワーズが日本にやってきたことがある、ってことだったんだ。なぜ日本に来ることが、エドワーズの人生を変えてしまったんだろう。
エドワーズが最初に日本にやってきたのは、1977年の「ジャパンボウル」。当時日本で開催されていた全米大学フットボールのオールスター戦。当時サンディエゴ州立大学4年生のエドワーズは、西軍のCBだった。当時の大学フットボールのオールスター戦っていうのは、シーズン終了後、まずハワイで「フラボウル」という試合を戦って、まったく同じメンバーがそのまま日本に渡り、「ジャパンボウル」を戦うっていうスケジュールだった。敵味方関係なく、このメンバーに選ばれた選手は、2週間に渡って一緒に行動したんだ。
そしてエドワーズはこの旅で、運命的な出会いをする。トニー・ダンジー、ミネソタ大学のスターQBだ。ともに騒ぐのが好きじゃなかった2人は意気投合し、この2週間、ずっと一緒にいたそうだ。ただ、試合ではダンジーは東軍のQBだったから、2人は敵味方に分かれてプレイすることになった。
西軍リードの試合展開、ダンジー率いる東軍は、試合終盤に怒濤の反撃を見せる。敵陣15ヤード地点まで迫るダンジーは、起死回生のパスを放った……。ボールは守備選手にはじかれ、エドワーズがインターセプト。試合はそのまま西軍の勝利で終わった。
ダンジーはこのインターセプトをとても悔しがったそうだが、一方でエドワーズとダンジーの友情は、さらに深まった。
エドワーズがコーチ業から足を洗った95年に戻ってみよう。シーズンが終わり、カレンダーが96年に変わったばかりの頃。エドワーズはスカウトとして、自分も昔プレイしたフラボウルで、大学のトップ選手たちを偵察に来てたんだ。泊まっていたホテルに、留守番メッセージが残されてた。相手は、ヴァイキングスの守備コーディネイターからタンパベイ・バッカニアーズの新ヘッドコーチに就任したダンジーだった。
ジャパンボウルを戦った後、2人ともドラフト外でNFLの選手になった。エドワーズはフィラデルフィア・イーグルスへ、ダンジーはピッツバーグ・スティーラーズへ。引退後はコーチになり、ダンジーがヴァイキングスに行く直前の2年間は、チーフスで同じ釜の飯を食った仲だ。
そのダンジーから突然の電話だ。どうしたんだろう、エドワーズはダンジーに電話をかけ直してみた。すると「俺と一緒にバッカニアーズに来てくれないか」。予想もしなかった誘いだった。自分はコーチの仕事に区切りをつけたばかりだというのに。
ダンジーの申し出に、エドワーズはとても悩んだ。自分の目標は、GMになることなんだ。当時チーフスの大学スカウト部長だったテリー・ブラッドウェイも、必死にエドワーズを説得した。「コーチに戻るなんて間違いだ。だって自分がどんなに優秀なコーチでも、チームが勝てなきゃクビになっちゃう仕事なんだぜ」。
「数日間悩んで、もう一度チャレンジすることにしたよ」。エドワーズはダンジーのもとに飛んだ。そしてダンジーと一緒に、バッカニアーズのリーグ最強ディフェンスを築いたんだ。その功績が認められて、2001年にエドワーズはジェッツのヘッドコーチに就任した。エドワーズをジェッツへ引き抜いたのが、彼がコーチに戻ることに反対したはずのブラッドウェイ(現ジェッツGM)だったんだから面白い。
こうして、今年8月2日の『NFL TOKYO 2003』出場のため、エドワーズが3度目の来日をすることなったんだ。もし学生時代、ダンジーと一緒に日本にやってきていなければ、別の人生がエドワーズを待っていただろう。過去2年連続でチームをプレイオフに導いているエドワーズの活躍ぶりを見ると、25年以上も昔にダンジーと運命的な出会いをしていたことが、少しラッキーに思えるね。 |