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NFL Report Japan


このコーナーでは米国のNFL記者クラブ的存在であるPro Football Writers of Americaに日本人として唯一所属するジャパンタイムズ記者、生沢浩がNFLチームの存在する都市をいろいろな角度から紹介します。どうぞお楽しみに!!

第13回 《ボルティモア編》

 アメリカ東部に位置するメリーランド州は、合衆国でも最も古くからある州のひとつだ。17世紀初頭にはイギリスの地図に書き込まれていた記録がある。1630年代にイギリスのチャールズ一世が北米大陸の領土を身内や配下に分け与えた際に、ボルティモア卿に下賜されたのが現在のメリーランド州の場所だといわれる。
 ボルティモアは1729年に誕生した。その後港町として繁栄を極め、現在では人口65万人が住む、メリーランド州最大、全米でもトップ20に入る大都市となっている。
 ワシントンDCから北東に約65キロの地点に位置するボルティモアは、アメリカ人の心の故郷とも言うべき街だ。
 1812年に勃発した米英戦争。その中で最も熾烈な戦いが起こったのが9月13日だ。間断なく砲撃をしかけるイギリス軍に対し、メリーランドの兵士たちはマックヘンリー要塞に立てこもって戦った。アメリカの独立戦争(1775〜83年)時に作られたマックヘンリー要塞は25時間に渡った激戦にも耐えてみせ、戦闘が終結した後も星条旗が風に靡いていたという逸話は有名だ。そして、これを見たフランシス・スコット・キーが星条旗を称える詩を詠んだ。この詩は後にメロディがつけられた。これが『Star Spangled Banner』、すなわち現在のアメリカ国家である。
 この星条旗を製作した家というのもボルティモアにあり、当時の家具などがそのまま展示してある。
 その米英戦争から約100年後の1918年、アメリカは一人の野球選手に熱狂していた。ジョージという名の23歳のその投手はボストン・レッドソックスをワールドシリーズに導き、29イニング連続無失点記録を樹立した。しかし、翌年にはその栄光をあっさりと捨てて打者に転向してしまう。もともと打者として天才的な才能があったのか、はたまた運動能力が並外れていたのか、ジョージは打者として成功を収めていく。打者転向初年度にいきなりホームラン王に輝くと、ヤンキースに移籍した20年以降、年間50本以上のホームランを量産していったのだ。彼は生まれつき童顔で、大人になってもあどけない顔(これが幼少の頃の悪行とは似ても似つかないほどだったとか)をしていたため、人からはBabeのあだ名で呼ばれていた。そう、ベーブ・ルースである。ルースの生誕した地がこのボルティモアなのだ。
 ボルティモアにはルースの生家のあった場所には現在ボルティモア・オリオールズの博物館が建っている。ルースの生家も再建され、中には実際に彼が使用していた家具や彼にホームランを打たれた延べ714人のピッチャーの名前が記された記録が展示されている。
 アメリカ人が誇りとする星条旗、今でも愛してやまない伝説のホームラン打者ベーブ・ルースはともにこのボルティモアから生まれた。アメリカ人の心ここにあり、なのである。
 ボルティモアで最も人気のある観光スポットはやはりインナーハーバーだろう。近代的な貿易センタービルとレンガを敷き詰めた道路のコントラストに、数多く係留されたヨットが美しい港の風景を彩っている。食通ならばカニ料理は外せない。
 ボルティモアはまたアメリカを代表する短編小説家/詩人のエドガー・アラン・ポーの墓があることでも知られる。アメリカの各地で暮らしたポーは1849年9月に所用で訪れたボルティモアで死去した。40歳だった。奇しくもボルティモアは父デイヴィッドの生まれた街でもあった。
 ご承知のとおり、1996年にクリーヴランド・ブラウンズがボルティモアに移転し、ボルレイヴァンズと改名したが、その名前はポーの代表的な詩『The Raven』からつけられた。
 レイヴァンズの他にプロスポーツではMLBオリオールズの人気が高い。オリオールズは1901年に誕生し、これまで3度のワールドシリーズ制覇を果たしている。NFLのコルツとともに、ボルティモア市民に深く愛されてきた。コルツが84年にインディアナポリスへ移転した後は、唯一のメジャープロスポーツとしてボルティモアッ子の精神的なよりどころとさえなっていた。
 オリオールズの代名詞とも言うべき存在だったのがカル・リプケンJrだ。連続試合出場(2632ゲーム)で世界記録を持つ鉄人であるとともに、現役生活を通じてオリオールズ一筋だったこともファンの心をつかんで放さない理由だ。99年9月20日に彼は後進にチャンスを譲ることを理由に自ら志願して先発ラインアップを外れ、記録は途絶えた。
 余談だが、その日僕は社内で新聞の編集作業をしていた。お昼頃だっただろうか、リプケンが先発メンバーを外れたというニュースが、通信社からメディア向けに発信される臨時速報で伝えられた。英字新聞のジャパンタイムズとしてはトップ級のニュースだ。慌てて紙面を差し替えたのを憶えている。リプケンはその後、2シーズンプレーし、2001年に引退した。

◎スタジアムの歴史
M&Tバンクスタジアム
 1998年にレイヴァンズのホームスタジアムとして誕生した。収容人数69084の天然芝球場である。98年から2002年まではPSIネット社がネーミングライツ(スタジアム命名権)を持っていたが、同社が2001年12月にC&W社に吸収合併されたことでスポンサー活動を停止。2002年シーズンはレイヴァンズスタジアムと呼ばれたが、2003年からM&Tバンクがネーミングライツを7500万ドルの15年契約で買収し、現在はM&Tバンクスタジアムという名称が使われている。オリオールズの球場オリオールパークatカムデンヤードと同じくHOKスポーツという設計業者によってデザインされた。このスタジアムはピアノ工場の跡地に立てられたため、それを記念してスタジアムの西南口はピアノをあしらった形になっている。

生沢浩(いけざわひろし)
ジャパンタイムズ運動部主任。1965年北海道生まれ。高校生のときに偶然テレビで見たボー・ジャクソンのランに魅せられてフットボールの虜となる。上智大学でRBとしてプレイ。米国のNFL記者クラブ的存在であるPro Football Writers of Americaに日本人として唯一所属。現在は『アメリカンフットボールマガジン』、『Sports Yeah!!』などの雑誌にNFLの記事を寄稿する傍ら、「NHK-BS」や「G+」でゲーム解説を務める。訳書に『NFLに学べ フットボール強化書』(ベースボールマガジン社刊)がある。

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第20回 《デトロイト編》
第19回 《クリーヴランド編》
第18回 《アトランタ編》
第17回 《セントルイス編》
第16回 《フィラデルフィア編》
第15回 《ニューイングランド編》
第14回 《ヒューストン編》
第13回 《ボルティモア編》
第12回 《シアトル編》
第11回 《ワシントンDC編》
第10回 《マイアミ編》
第9回 《シカゴ編》
第8回 《サンフランシスコ編》
第7回 《ピッツバーグ編》
第6回 《インディアナポリス編》
第5回 《タンパベイ編》
第4回 《ニューオリンズ編》
第3回 《サンディエゴ編》
第2回 《デンヴァー編》
第1回 《ニューヨーク編》

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