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今週のプレイヤー、コーチトピックス


コルツのバックフィールドに新星
 
 第7週から3連敗と最悪の状態で、第10週に敵地でNFC東地区首位に立つ強豪フィラデルフィア・イーグルスと対戦したインディアナポリス・コルツ。チームの窮地を救ったのは、シーズン開幕直前に急遽入団した新人RBだった。その名はジェイムズ・マングロ。シラキュース大時代は3年生までエースRBの座に及ばず、4年生の昨季こそ12試合に先発してラン1170ヤード、14TDと活躍を見せたものの、小柄なサイズも災いして今春のドラフト指名にかかることはなかった。ドラフト外でデトロイト・ライオンズと契約するものの、今季開幕前に解雇。コルツに拾われたのはその直後、開幕戦まで1週間を切った9月3日のことだった。
 言うまでもなく、コルツのエースRBの座には、新人の99年から2年連続でリーグのラン記録リーダーとなったエジャリン・ジェイムズがいる。が、そのジェイムズは昨季第7週のチーフス戦で左膝靱帯を断裂、その後のシーズンを棒に振ったあげく、今季出場に向けた回復具合も懸案事項だった。また、ジェイムズの穴を埋めて新人ながら昨季1104ヤードを走ったドミニク・ローズもキャンプ中に同じく膝の靱帯を断裂し、今季の出場が不可能となった。そういった中、コルツはシーズン開幕直前にドラフト外新人のリッキー・ウィリアムズ(マイアミ・ドルフィンズの同名選手とは別人)をトレードで獲得、さらにライオンズから放出されていたマングロと契約したのである。
 案の定、今季のジェイムズの負傷前の切れ味は見られず、ラン1回平均3.4ヤード獲得と低迷。第8週レッドスキンズ戦では太ももの裏を負傷し、戦線を離脱することとなった。代役と見込まれていたウィリアムズも同じ箇所のケガで出場できず、迎えたイーグルス戦、3番手だったマングロにプロ初の先発の機会が回ってきたのだ。
 結果はご存じの通り、マングロはリーグ3位の強固なラン守備擁するイーグルスから前半だけで101ヤードをランで奪い、トータル114ヤード、2TDの大活躍。予想外のコルツ大勝に大いに貢献した。ちなみに、コルツの新人RBが初先発試合でラン100ヤードを突破するのは99年のジェイムズ、昨季のローズに続き、ここ4年間で3人目(チーム史上6人目)。特に昨季のローズとマングロはドラフトすらされなかった無名のルーキー。思わぬ救世主の力を借り、コルツはシーズン後半の再浮上を目指す。
[2002年11月13日]

「心は日本人」新人フジタの活躍
 
 今シーズン、日本のファンの興味をひく名前をもつ一人の選手がNFLにデビューを果たした。スコット・フジタ、カンザスシティ・チーフスの新人LBである。ただし、フジタは名前から連想されるような日系人ではなく、外見は白人。出生後まもなく日系人のロッド・フジタ氏の養子となり、フジタ姓を名乗ることとなった。
 カリフォルニア大学(バークレー校)へは一般入学からフットボールに自主入部(ウォークオン)。98年、1年生時にスペシャルチーム要員として目覚ましい活躍を見せ、その年のオフに晴れてフットボール奨学金を手にした苦労人だ。すでに大学4年目のシーズンには学部を卒業、大学院での学位も取得済みの秀才でもあり、将来は経営修士号およびロー・スクールへの進学も考えている。
 カリフォルニア大での華々しいキャリアを終え、フジタは今春のNFLドラフトでチーフスに指名を受けプロ入り。高校入学時は身長170cm、体重54kgの小柄な少年だったフジタは、見事フットボールの最高峰の舞台に登り詰めた。
 5巡指名という指名順位からみても、新人のフジタに首脳陣が即戦力の期待をかけていたとは言い難い。が、夏のキャンプ初日から、フジタはそのハッスルプレイとプレイの理解力でコーチ陣を驚かせる。第6週にはベテランのルー・ブッシュに代わってアウトサイドLBのスターターの座を掴み、第10週までで31タックル、1ファンブルリカバーを記録している。
 「僕はお米を食べて育った人間。ベークト・ポテトなんて9歳になるまで食べたことがなかった。僕はアメリカ人だけど、内面は半分日本人なんだ」。新人ながらNFLの舞台で縦横無尽に暴れ回るフジタ。今後の活躍が注目される。
[2002年11月13日]

ジャイアンツ指揮官、起死回生の「マジック」
 
 2000年シーズン以来のスーパーボウル返り咲きを狙うニューヨーク・ジャイアンツ。しかし攻撃陣が低迷し、特に自慢だったはずのラン攻撃が本来の力を発揮できず、RBティキ・バーバーはラン100ヤードを突破したゲームがないまま、第8週のマンデーナイト・ゲームでフィラデルフィアに乗り込み、同地区ライバルのイーグルスと相対した。が、ジャイアンツを待っていたのは今季最低の3得点に抑え込まれての惨敗だった。
 オフェンスに決め手を欠くことは、ジャイアンツがシーズン開幕から抱えてきた悩み。第8週までで1試合平均12.7点しか稼げない攻撃陣の得点力は、リーグ32チーム中31位の惨状だった。この窮地に、ジム・ファッセルヘッドコーチはオフェンスのプレイコール権を攻撃コーディネイターのショーン・ペイトンから取り上げ、第9週ジャグワーズ戦より自らプレイコールをおこなうことを決定したのだ。
 プレイコールはコーディネイターの仕事、とは単純に言い切れない状況が現代NFLにはある。特に、ビル・ウォルシュ門下生と呼ばれるウェストコースト系の攻撃コーチの場合、ヘッドコーチの座にあっても自らプレイコールをおこなう場合が少なくない。マイク・シャナハン(デンヴァー・ブロンコス)やマイク・ホルムグレン(シアトル・シーホークス)がその代表例である。
 しかし、ジャイアンツの攻撃コーディネイターであるペイトンは、コーディネイター就任前からプレイコール権を与えられていた珍しい例である。99年シーズンの第13週、今回と同様低迷する攻撃陣を建て直すため、ファッセルはプレイコール権を当時のコーディネイターであったジム・スキッパーから剥奪し、QBコーチだったペイトンに与えたのだ。
 ペイトンもその期待に応え、満を持してコーディネイターに昇格した翌2000年度のプレイオフ・NFC決勝、意表を突く果敢なパス・アタックでミネソタ・ヴァイキングスを41−0で粉砕し、見事チームのスーパーボウル進出の立役者となった。
 それから2年、苦肉の策として今度はペイトンからプレイコール権を剥奪したファッセルだったが、以後の結果をみれば、その判断は間違いでなかったと言える。まず、攻撃にバーバーのランという軸が復活した。バーバーは第9週、10週それぞれランで100ヤード以上を獲得し、チーム攻撃陣全体でもトータル7TDをマーク。ちなみにそれ以前の7試合で攻撃陣があげたTD数も7。わずか2試合でそれと同数のTDを記録したことになる。
 スーパーボウル出場を果たした2000年シーズンの『プレイオフ進出を保証する』発言など、様々な「マジック」を披露してきたファッセル。今回の「マジック」の効き目はいつまで続くだろうか。
[2002年11月13日]

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