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今週のプレイヤー、コーチトピックス


今最も注目を浴びるヘッドコーチ
 
カウボーイズの新ヘッドコーチに就任したビル・パーセル
 2003年シーズンで最も注目を浴びるであろう新任ヘッドコーチといえば、間違いなくカウボーイズのビル・パーセルだ。
 今季4年ぶりにNFLの舞台に復帰する61歳のパーセルはニューヨーク・ジャイアンツを2度のスーパーボウル優勝に導いた名将だ。ジャイアンツ、ペイトリオッツ、ジェッツでの計15年間のヘッドコーチ経験で勝ち越しシーズンは実に10を数える常勝ヘッドコーチでもある。
 そして、特筆すべきはこれまでのチーム改革の実績だ。パーセルが新ヘッドコーチに就任した過去3度のケースは、すべてチームが低迷していた時期だ。それをいずれもわずか2年以内で勝ち越しに導いているのである。
 カウボーイズは昨季、3年連続の5勝11敗に終わった。アメリカズチームとあだなされるカウボーイズが3年連続して10敗以上を喫したのは、歴史上これが初めてのことだった。当然のごとく、ヘッドコーチのデイヴ・カンポは解雇され、パーセルが招聘された。名門復活のためにパーセルズの手腕が大きく期待されるのは無理もない。
 FAが解禁となった2月28日前後からパーセルの動きが活発になってきた。それも、かつて自分の下でプレイした選手たちをかき集め始めたのが特徴だ。
 2月28日にはWRテリー・グレンをパッカーズからトレードで獲得し、3月4日にはFBリッチー・アンダーソン、OTライアン・ヤングとFA契約した。
 グレンは96年に当時ペイトリオッツのヘッドコーチだったパーセルズから、ドラフト7巡指名を受けてNFL入りした。故障がちのグレンはパーセルから「女」呼ばわりされたこともあったが、結局このシーズンにグレンは自己最多90回のパスキャッチで1132ヤードをマークする。99年にも一度1000ヤード獲得を経験しているグレンだが、7年間で最もいい成績を残したのはこのルーキーシーズンだった。
 ところが、パーセルはこの96年にペイトリオッツをスーパーボウル出場に導いた直後、翌年にはジェッツのヘッドコーチに就任してしまう。パーセルの下でグレンがプレイしたのはこの1シーズンのみとなってしまった。それが自己ベストであっただけに、以後不振にあえぐグレンが再びパーセルの指導で花開きたいと考えるのは自然なことだろう。
 パーセルもグレンの能力を高く評価している。2002年シーズンが始まる前、パッカーズはグレンをペイトリオッツからトレードで獲得した。その際、パッカーズはパーセルに電話を入れてグレン獲得についての相談をしたそうだ。パーセルはパッカーズに対してグレン獲得を薦め、「自分が今季どこかのチームでヘッドコーチをやっていたなら、間違いなくそのトレードは実行に移していただろう」とまで述べたと言われる。言わばそれをパーセルが1年後に実現した形になったわけだ。
 アンダーソンとヤングはジェッツでパーセルの指導を受けた。ヤングは99年にパーセル自身の手でドラフト7巡指名を受けた。彼もパーセルに心酔している選手の一人で、FAとなったこのオフはジャガーズやバッカニアーズから誘いを受けながらも、「パーセルの下でプレイしたい」ことを理由にカウボーイズ入団を決意した。
 新ヘッドコーチがかつての教え子を呼び寄せることは珍しいことではない。しかし、パーセルの場合にはその傾向が特に強い。ペイトリオッツからジェッツに移籍した際にも、RBカーティス・マーティンやQBレイ・ルーカス、Pトム・テューパらを引き抜いたことがある。
 パーセルが積極的に元教え子を集める理由は、彼自身の指導方法と密接な関係がある。
 パーセルのチーム作りはよく専制王制に喩えられる。彼は選手に完璧なる忠誠心とベストのパフォーマンスを求め、それを満たさなければその選手はチームメートの前で罵倒され、ベンチに下げられ、最悪の場合には解雇される。こういったパーセルのやり方ははキーション・ジョンソンやマーティンといったスタープレイヤーに対しても同様だった。
 かつてパーセルの下でプレイしたLBクリス・スレイドは次のように語っている。「ビルの要求は厳しい。それが実現されないと、車の中だろうとロッカールームだろうと、いや、トイレにまで付いてきて説教をたれまくるんだ。だから、試合になるとみんなビルを黙らせるために必死になってプレイするのさ。」
 スレイド自身、一度はパーセルズの判断で控えに回され、その悔しさをバネに翌年にはプロボウルに出場した経験がある。
 選手たちは常にパーセルから「見限られる」ことに対して恐怖感を持っている。その恐怖感がモチベーションとなって選手たちの能力を最大限に引き出すことをパーセルはよく知っているのだ。これはジャイアンツ、ペイトリオッツ、ジェッツでの実績によって実証されてきた「パーセルイズム」なのである。
 パーセルイズムを浸透させるには、それを熟知している選手をチームに入団させ、彼らの力を借りるのが有効な手段だ。そうすることによって、パーセルは自分と選手たちが断絶してしまう危険を未然に防いでいる。
 その一方でパーセルは、自身が大好きな競馬などフットボールを離れた場で選手と時間を共にすることを好む。これは、選手の心を掴もうとするこまやかな気配りの現れなのかもしれない。
 奇しくもパーセルの三女の名前はダラスという。そのパーセルの力でダラスがどう変わっていくのか、2003年シーズンの動向を見守りたい。
 
[2003年3月11日]

鉄鋼の街を離れた万能QB
 
スティーラーズでの波乱に満ちたキャリアを終え、新天地を求めるQBコーデル・ステュワート
 ついに、コーデル・ステュワートがスティーラーズと袂を分かった。かつて「スラッシュ」と呼ばれ、モバイルQBの先駆者となったステュワートだったが、2002年にはトミー・マドックスにポジションを奪われ、オフに入ってからサラリーキャップを理由にチームから放出された。
 スティーラーズはステュワートの放出によって2003年のサラリーキャップ(7500万ドル)から630万ドルを控除することができる。その上で97年シーズン後に結んだ新契約のサインボーナスの分割分(162万ドル)が計上されるが、それでもキャップ枠に大きな余裕ができることは間違いない。
 ステュワートは最後までスティーラーズから高い評価を得られなかった。実績は決して恥ずかしいものではない。先発QBとして46勝29敗の成績を残し、チームをAFC決勝にまで2度導いた。2001年にはパス成功率(60.2%)とQBによるラッシング距離(537ヤード)で球団記録も打ち立てた。通算パス獲得距離(1万3328ヤード)はスティーラーズ歴代2位、ラッシング距離(2561ヤード)は13位である。
 それでもステュワートが「パスの下手なQB」というレッテルを貼られていることは否めない。それは2度のAFC決勝で犯した計6度の致命的なインターセプトが大きく影響しているだろう。70年代に栄華を極めたスティーラーズのよう名門チームでは、スーパーボウルに出場できなければ評価はされにくい。
 ステュワートは97年に先発QBとなって1年目であるにもかかわらずスティーラーズをAFC決勝に導いた。この年は自己最多の21TDパスに加え、ランでも11TDを挙げ、「走れるQB」として一躍脚光を浴びた。
 しかし、肝心のAFC決勝ではジョン・エルウェイ率いるブロンコスに対し、逆転のきっかけとなったものを含み、計3つのインターセプトを犯してしまう。
 プロボウルに初出場し、チームMVPに輝いた2001年も同様だった。シーズン中はこれまでの不振が嘘のようにパスが安定し、チームが13勝3敗の好成績を残す原動力となった。しかし、ペイトリオッツとのAFC決勝ではやはり3つのインターセプトで反撃の芽を摘まれてしまったのである。
 捲土重来を期した2002年は、スティーラーズは開幕からペイトリオッツ、レイダーズに連敗した。スーパーボウル最有力候補の呼び声が高かっただけに、このつまずきはファンを大きく失望させた。そして、その矛先は安定したパフォーマンスを見せることのできないステュワートに向けられたのである。
 背水の陣で臨んだブラウンズとの第3戦でもチームは追いかける展開。ステュワートは第4Qにエンドゾーンに投げたパスをインターセプトされてしまう。大げさな言い方をすれば、この瞬間にスティーラーズにおけるステュワートの時代は終わった。
 ビル・カウアーHCはこのプレイを最後にステュワートをベンチに下げ、控えのマドックスを投入した。マドックスはクイックリリースからのパスを次々と成功させ、逆転勝ちを演出した。ステュワートのコントロールの定まらないパスをいやというほど見せられていたファンやコーチの目に、マドックスが救世主として映ったのも無理はない。
 カウアーは熟慮の末、マドックスを新スターターに指名した。マドックスもそれに応えるようにチームに4連勝を含む7勝(3敗1分け)をもたらし、先発QBとしての地位を磐石のものとした。
 ステュワートはマドックスが故障欠場した2試合に先発した以外、再びスターターとしてフィールドに立つことはなかった。
 思えばスティーラーズにおけるステュワートは好不調の繰り返しに終始した。彼がスティーラーズに入団したのは95年。ドラフト2巡でのQB指名はスティーラーズでは過去22年で最も高いものだった。ステュワートの運動能力を高く評価するチームは少なくなかったが、彼をNFLでQBとして起用する方針を明らかにしていたのはスティーラーズだけだった。それだけ期待されていたことがわかる。
 ルーキーの年はニール・オドネルの控えとしてクオーターバッキングを学ぶ一方で、WRやRBとしてラインアップしたり、ゴール前の場面でQBを務めたりした。こうした複数のポジションをこなすことから「スラッシュ(スラッシュとは「/」のこと)」というニックネームがつけられた。
 「研修」を終えたステュワートは97年から先発QBとなる。スラッシュからの卒業だった。そして、この年は前述のような活躍で、一気にスターQBとなるのである。
 彼にとって不運だったのは翌年からチームが彼をポケットパサーとして起用することに方針を変えたことだった。カウアーはもともとポケットパサーを好むとされる。しかし、自慢の脚力を生かしたプレイを封印され、ディフェンスの動きを読みながらプレイすることを強いられたステュワートは並以下のパサーになってしまったのだ。
 以降、ステュワートは不振を極めた。それと歩調を合わせるがごとく、スティーラーズもプレイオフの舞台から遠ざかった。99年の終盤には不調のあまり、マイク・トムザックにポジションを奪われ、カウアーから一時的にWR転向を命じられた。2000年の開幕先発はケント・グラハムに奪われるという屈辱も味わう。
 しかし、その年の中盤から先発に返り咲き、2001年に自己最高の成績を残すとともにスティーラーズをAFC決勝に導いたのである。プライドの高いステュワートが、控えに甘んじる悔しさをバネに大きく成長した証だった。むしろ、これは彼の意地だったのかもしれない。ただし、これも長くは続かなかった。
 ステュワートは今後新天地を探すことになる。パンサーズ、レイヴンズ、ベアーズらが獲得に興味を示しているといわれる。しかし、誇り高きステュワートはあくまで先発にこだわる姿勢を崩していない。「自分はあくまで先発QBだ。それは周知の事実。自分にはまだスーパーボウルで優勝するだけの能力が残っている」とステュワートは言う。しかし、3月中旬現在で、彼を即先発として迎えるチームはない。多くのチームはステュワートをバックアップとして考えており、よくてもキャンプで先発争いのチャンスを与える方針にとどまっている。
 黒人モバイルQBとして一時代を築いたといっても過言ではないステュワート。この孤高のQBが本当に評価されるには自身の手で念願のスーパーボウル優勝を手にするしかない。その日はくるのだろうか。そして、そのとき彼はどんなユニフォームを着ているのだろうか。
[2003年3月11日]

アリゾナから来たエルウェイの後継者
 
ブロンコズでその真価を問われることになるQBジェイク・プラマー

 ジェイク・プラマーはかつて「ジョン・エルウェイと一度でいいから対戦したかった」と述べたことがある。97年にNFL入りしたプラマーと98年シーズンを最後に引退したエルウェイがサイドラインをはさんで対峙することはなかった。それを残念に思っての発言だった。
 脚力を生かしてポケットから飛び出し、崩れかかったプレイをロングゲインに変えてしまうプレイスタイルはエルウェイの全盛時代によく似ている。そして、第4Qでの逆転劇が多いというのもエルウェイの勝負強さを彷彿とさせる。
 エルウェイと対戦することはなかったプラマーだが、どういう因果か、エルウェイの後継者なることを義務付けられた。
 3月5日にプラマーはブロンコスと総額4000万ドルの7年契約を結んだ。FA解禁第1週で最も話題を呼んだ契約だった。
 ブロンコスは昨シーズン後にすでにブライアン・グリーシーに見切りをつけ、2003年は新たなQBで戦うことを決めていた。そして、ベアーズとの競争の末にプラマー獲得に成功したのである。
 グリーシーは98年にドラフト3巡指名を受けて入団し、エルウェイの後を受けて99年開幕戦から先発QBとなった。2000年にはリーグ最高のパサーレイティングを残してプロボウルにも出場したが、最近2年間は不振にあえいでいた。故障にも弱く、先発4年間でフル出場したシーズンは一度もない。
 ブロンコスは98年シーズンにスーパーボウルで優勝して以来、プレイオフ出場は1回しかない。その原因の一つをグリーシーに求めたマイク・シャナハンHCは、あれだけ能力を高く評価していた彼を切ることに決めた。現在ブロンコスはグリーシーのトレードを画策しているが、トレードが実現しない場合6月1日以降の解雇が有力視されている。
 さて、プラマーのブロンコス入団の焦点は、プラマーがブロンコスを復活させるQBとなり得るかだ。プラマーの経歴ははっきり言って芳しくない。97年にドラフト2巡でカーディナルズに入団した。ルーキーシーズンは第7週のデビュー戦でいきなり逆転劇を演出し、翌週から先発の座を射止めた。元49ナーズヘッドコーチで現コンサルタントのビル・ウォルシュはプラマーを見て「第2のジョー・モンタナとなる素質がある」と絶賛した。
 98年には1947年以来となるプレイオフでの勝利をカーディナルズにもたらしている。
 しかし、彼の実績にはマイナス面が多い。通算のTDパス数が90なのに対して被インターセプト数は114。TDパス数が被インターセプト数を上回ったのは2001年の一度きりしかない。そして、パス成功率は60%に満たない。
 ディフェンスが読めず、判断も鈍いとする評価もよく聞かれる。現バッカニアーズのRBマイケル・ピットマンなどは、カーディナルズ時代によくプレイのことでプラマーと口論した選手の一人で、今でも彼のプラマーに対する評価は高くない。
 にもかかわらず、ブロンコスはプラマーを「ちょっとだけ肩の弱いエルウェイ」と評して大きな期待を寄せている。その期待の裏には、QB育成に定評があるとされるシャナハンとゲイリー・キュービアック攻撃コーディネーターの存在がある。シャナハンは「ジェイクはブロンコスでカーディナルズ以上のプレイヤーとコーチ陣に恵まれる。彼の才能が開花するのは間違いない」と述べている。
 ブロンコス以外でも同じような考えを持つ人は少なくない。ジャイアンツのジム・ファッセルHCは「ジェイクはマイクのオフェンスにうまくフィットするだろう」と述べているし、元カーディナルズのGMで現在シーホークスのGMを務めるボブ・ファーガソンも「シャナハンとプラマーは理想の『結婚だ』」と評する。
 その一方で、グリーシー、ガス・ファーロット、スティーヴ・バーラインで失敗したものをプラマーで成功させられるのかと疑問視する向きも多い。
 ひとつだけ言えることは、その答を握っているのはプラマーに他ならないということだ。プラマーの7年契約にはオプションがついており、最初の2年を経過した後でブロンコズは残りの5年を行使するか否かを決定することができる。もし、プラマーが期待通りの活躍をすることができれば彼はそのままブロンコズの先発QBに君臨するが、不調なシーズンを送るようであれば2年後にまた彼は新チームを探さなくてはならない。
 そして、プラマーの失敗はそのままシャナハンの地位をも危うくするものである。シャナハンのプラマー登用は、言わば背水の陣である。これに失敗すればシャナハン自身がブロンコスのヘッドコーチ職を失うことになるからだ。
 プラマーとシャナハンの生き残りを賭けた戦いは今始まろうとしている。そして、その戦いのなかで、プラマーは別の意味でエルウェイと対戦していることに気づくだろう。

 
[2003年3月11日]

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