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今週のプレイヤー、コーチトピックス


偉大なる父の影を振り払い、スターダムへ
 
バッカニアーズLBライアン・ニース
 タンパベイ・バッカニアーズのLBライアン・ニースにとって、フットボール人生は逆境の連続だった。大学時代は、2年生の1999年シーズンにスターターの座を手にし、9試合に先発。以降、2000年、01年と2年連続で全試合先発出場を果たし、01年には全米最高のLBに与えられるバトカス賞の二次選考にまで残った。
 しかし、迎えた02年のNFLドラフトで、ニースが指名を受けることはなかった。間もなくニースはドラフト外でバッカニアーズと契約を結び、プロフットボール選手としてのキャリアをスタートさせた。
 オフシーズン、NFLの各チームは80人の選手を契約下に置く(=ロースター登録する)ことができる。近年では、NFL欧州リーグに派遣している選手の人数分、このロースター枠が拡大されるため、通常チームの登録選手数は90人近くとなる。レギュラーシーズンの各チームの選手登録枠は53人。40%の選手が開幕を待たずしてチームから解雇される運命にある。
 毎年ドラフト後に契約するドラフト外入団選手の大半は、この40%に含まれる。もちろん、チームは無名の選手の中から隠れた逸材を見つけようとする。実際、プリースト・ホームズ(チーフスRB)のようにドラフト外入団からスターダムへ上り詰める選手もいる。しかしそういった選手はまれであり、チームもすべてのドラフト選手にそこまでの期待をしているわけではない。毎年7月後半から行われるNFL各チームのトレーニングキャンプでは、連日1日2回の厳しい練習が待ち受けている。練習を行うためには練習台が必要であり、どうしてもチームは選手の人数を確保しておかなければならない。だからこそ、オフシーズンの選手登録枠が1チームあたり80人に拡大されているのであり、チームは「camp fodder」(キャンプの人数合わせのための選手)としてドラフト外ルーキーを大量に抱える、という面も否定できない。
 最初から多くを期待されないドラフト外入団組がNFLで生き残ることは非常に難しい。昨年のちょうど今頃、ニースはそんな立場にあった。そんな厳しい環境ながら、ニースはキャンプで首脳陣に強烈にアピールした。キャンプ1週目、ヘッドコーチのジョン・グルーデンは名指しでニースのプレイを褒め称えた。「ライアン・ニースは本当に目立っている。随所に運動能力の高さを見せているし、当たり強さもある」。
 その後もキャンプ、プレシーズンを通して良いプレイを見せ続けたニースは、昨シーズンのバッカニアーズの開幕ロースターに見事残留を果たし、名LBデリック・ブルックスのバックアップ要員としてシーズン開幕を迎えることとなったのである。
 しかし、こうして迎えたプロ1年目のシーズンもニースにとっては順風満帆なものとはならなかった。10月27日のキャロライナ・パンサーズ戦で膝の十字靱帯を断裂し、ニースのシーズンは幕を閉じた。今年1月のスーパーボウルの舞台も、ニースは私服で観戦するより他なかった。
 次々に降りかかる逆境に挫けそうになりそうなものだが、ニースにとっては、この程度のことは逆境とは言えないのかもしれない。ニースはこの世に生を受けてから今までずっと、自分ではどうしようもない逆境と闘い続けてきた選手なのだ。あまりにも偉大すぎる父親の存在という逆境に。
 ニースの父の名はロニー・ロット。かつてサンフランシスコ49ersでCB、セーフティとして活躍し、4度のスーパーボウル優勝の栄冠に輝いている名プレイヤーである。少年期のニースは、常にロットの存在に苦しめられてきたという。「高校時代、良いプレイをしても『ライアン・ニースの好プレイ』とは絶対言われない。『元49ersの名選手、ロニー・ロットの息子の好プレイ』と言われるんだ。当時は、それをなかなか受け入れられなかった」。
 母親の旧姓であるニース姓を名乗ったのも、大学進学時に父の通った南カリフォルニア大ではなく、その宿命のライバル校であるUCLAを選んだのも、父から離れ、ライアン・ニース個人として一人立ちしたいという彼の欲求の表れだった。そして、父がかつてプレイした49ersやオークランド・レイダースからの誘いを断り、北米大陸の反対側のバッカニアーズを入団先に選んだのも同様だった。
 「親子として、僕たちの関係はよくなってきている。僕も成長して、父を尊敬できるようになったし、好きになれるようになった」と語るニース。NFL選手となった今、ニースは一人の選手として、自らの実力を周囲に示し続けなければならないのだ。現在ニースは膝のケガからのリハビリの最中にあり、5月第1週に行われたチームのミニキャンプにもフル参加はできなかった。まずは体調を万全に回復させ、再び夏のトレーニングキャンプでコンディションが100%に戻っていることを首脳陣に証明しなければならない。
 8月2日の東京ドーム、『NFL TOKYO 2003』の舞台で、父を超えるようなハードヒットを見せることが、ニースの新たなる挑戦への第一歩となる。
[2003年5月14日]

3年のブランクを乗り越え現役復帰目指すブラウン
 
3年ぶりにNFL復帰を果たすレイヴンズOLオーランド・ブラウン
 4年前の1999年度シーズン、試合中に審判の投げたペナルティー・フラッグが選手の目を直撃するという事件が起きた。その選手は一時視力を失う重傷を負い、回復もままならぬまま所属チームから放出された。プロフットボール界から忘れられた存在となっていたその選手が今季、NFLの舞台へ復帰を果たそうとしている。
 オーランド・ブラウンがそのケガを負ったのはクリーヴランド・ブラウンズに所属していた99年の12月19日、シーズン第15週の対ジャクソンヴィル・ジャグワーズ戦。レフェリーのラリー・トリプレットが放ったフラッグが原因だった。怒ったブラウンはトリプレットを突いてリーグから出場停止処分を受け、翌2000年9月にブラウンズから解雇された。リーグ屈指の右攻撃タックルとしての評価をほしいままにし、当時このポジションでは最高給となる2700万ドル(約32億4000万円)の6年契約でボルティモア・レイヴァンズからブラウンズに移籍してわずか1年後のことであった。
 それ以降、まる3シーズンにわたりNFLのフィールドから遠ざかっていたブラウン。ブラウンズを放出されて以降はリーグに対し、総額2億ドル(約240億円)の損害賠償を求め訴訟をおこしていた。他方で現役復帰への動きも見せていたブラウンだったが、リーグとの和解交渉が長引き、これまで実現することはなかった。
 その和解が合意に至った今季、ようやくブラウンの復帰の道が見えてきた。ブラウンは現役を離れている間も代理人トム・コンドン、ケン・クリーマーが所属するスポーツマネジメント会社IMG運営のトレーニング施設で練習を積んできていた。そして、この春に各チームのスカウトを前にワークアウトを行い、その運動能力に衰えがないことを証明して見せた。
 最も強く関心を示してきたのがミネソタ・ヴァイキングス。ブラウン本人曰く総額1500万ドル(約18億円)レベルの4年契約を提示してきたとのこと。しかし、ブラウンはヴァイキングスとは契約せず、古巣のレイヴァンズと1年契約を結ぶ道を選んだ。「よそのチームからも誘われたけど、レイヴァンズを選んだのは子供も母親もボルティモアに住んでいるから。このチームのことはよく知っているし、チームも俺のことをよく知っている。クリーヴランド時代から、練習の仕方、プレイの仕方をここで教わったんだ」とその理由を語るブラウン。
 また、ブラウンはこうも語る。「(レイヴァンズGMの)オジー・ニューサムにこう言ったんだ。俺は3年間も現役を離れていた。だから(最初から先発のポジションを与えられるのではなく)スターター争いに挑戦したい。そうすることで、もっと練習に集中できる、とね」。
 レイヴァンズには、昨シーズン右タックルのポジションで13試合に先発出場したイーサン・ブルックスがいる。そのブルックスに挑戦する立場の方が、スターターの座が確約されるヴァイキングスよりも自分にはふさわしいとブラウンは考えたのだ。
 チームにとっても、ブラウン復帰の意味は大きい。昨オフ以降、大幅なチーム改造を行い、急速な若返り策を進めているレイヴァンズ。自慢のディフェンスこそLBレイ・ルイス、ピーター・ボールウェアら核となれる選手を残しているが、オフェンス陣は未知数の若手選手ばかりである。安心して見ていられるのはRBジャモール・ルイスとTジョナサン・オグデンくらいで、QBに至っては4年目のクリス・レッドマンと今ドラフト1巡指名の新人カイル・ボーラーがスターターの座を争う布陣である。そんな若いオフェンスに、32歳のベテラン選手ブラウンがもたらす影響は少なくない。
 また、ブラウンは旧クリーヴランド・ブラウンズ時代からの生き残り。すなわち、レイヴァンズ創設メンバーの一人でもある。現ロースターに残る創設メンバーはキッカーのマット・ストーヴァーのみだった。チームのアイデンティティを体現できるベテラン選手がまた一人、復帰した今季のレイヴァンズは、2000年シーズンに駆け上ったスーパーボウルの舞台へ舞い戻るため、着々と戦力を整えつつある。
[2003年5月14日]

オフシーズンの悲劇再び
 
23歳の若さで死去したカウボーイズRBエニス・ヘイウッド
 2年前の2001年トレーニングキャンプでミネソタ・ヴァイキングスのTコーリー・ストリンガーが熱中症のため死亡した事故はいまだ記憶に新しいが、またも現役NFL選手が不慮の死を遂げる悲劇が起こった。
 死亡したのはダラス・カウボーイズのRBエニス・ヘイウッド。昨年ドラフト外でアイオワ州立大からカウボーイズに入団、昨シーズンは練習生としてチームに所属していた。2年目の今季は念願のNFLデビューを目指し、先週末に行われたチームのミニキャンプに参加していた矢先の出来事だった。金曜日には1分30秒インターバルの300ヤードダッシュ4本のトレーニングに参加したというが、このミニキャンプでの練習が死因に関連しているかどうかは不明。ミニキャンプ開幕時には身体検査も行われ、ヘイウッドはその検査に問題なくパスしていた。
 ミニキャンプ終了後、自宅に戻ったヘイウッドは、5月10日の土曜の早朝に体調不良を訴え、午前4時頃から嘔吐を繰り返した。そして午前6時頃に呼吸停止に至り、家族が救急車を呼んでテキサス州アーリントンの病院に搬送された。その日は同病院で生命維持装置が取り付けられ懸命の治療が行われたが、翌11日の日曜日午前3時27分、ヘイウッドは還らぬ人となった。「ご家族の気持ちをお察しします。今回の事故は、知り合った人みんなに愛されてきた人物を巻き込んだ悲劇でした」。この日終日病院で看病にあたっていたカウボーイズのオーナー、ジェリー・ジョーンズはコメントを発した。検死は月曜日に執り行われたが、さらに詳細な検査を行い、死因が判明するのまでには早くても2〜3週間はかかると見られている。
 ヘイウッドはカウボーイズの地元テキサス州ダラスのカーター高校の出身。その後進学したアイオワ州立大では4年生時にチーム主将を務めるとともに、ラン258回1169ヤード獲得(14TD)の活躍でチームのMVPにも選ばれた。そして卒業後は故郷のカウボーイズとドラフト外で契約、プレシーズンでチーム1位のラン31回、120ヤードを獲得し、練習生として見事チーム残留を決めていた。今季は長年エースRBだったエミット・スミスがチームを去り、ヘイウッドには新スターターと目されているトロイ・ハンブリックのバックアップ役として、開幕ロースター入りも期待されていただけに、この地元スターを襲った悲劇にチーム関係者もショックを隠せないでいる。「奴はいつも故郷に戻って、育ったコミュニティの役に立ちたいと言っていた。奴は生粋のダラスっ子だったよ。奴の心は常にそこにあったし、いつもそのことばかりを考えていたんだ」。チームリーダーの一人、Sダレン・ウッドソンは語った。
 将来性豊かな若者の人生を何が奪ったのか。今は、さらなる検査の結果を待つよりほかない。

[2003年5月14日]


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