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NFLの組織

 NFL創設に携わり、1983年10月31日に亡くなるまでNFLの発展に1チームのオーナーという立場から、またそれを超越したところで関わってきたシカゴ・ベアーズのオーナー、ジョージ・ハラスが1981年12月10日、プロスポーツの移転問題を調査していた議会の委員にNFLの発展について説明した演説がある。NFL各チーム間のつながりの重要性を語ったこの演説は、NFLを20世紀で最も成功を収めたスポーツリーグにした組織と、その根底に流れる理念を最もよく表す。この理念は21世紀を迎えた今でもNFL全体を支えている。ジョージ・ハラスの言葉は以下の通りである。

写真:ジョージ・ハラス
 
 私はシカゴ・ベアーズ・フットボール・クラブのジョージ・ハラスです。私は1895年2月2日、シカゴに生まれ、シカゴは86年の間、私の故郷となっています。私は1918年にイリノイ大学工学部を卒業し、第一次世界大戦では12ヶ月、第二次世界大戦では39ヶ月間、アメリカ海軍で兵役を務めました。
 ここで皆様のご理解をいただき、私がNFLでの60年間を含め、プロフットボールに携わった61年の経歴と、その目的について簡単にお話ししたいと思います。
 私がフットボールに情熱を抱き始めたのは14歳のころでした。それから、高校、大学、海軍そしてプロでフットボールをプレーしました。
 1920年3月、私はC.B&Q鉄道に就職しました。その後、トウモロコシ、大豆で大きな財を成した、イリノイ州ディケイターのAA.E.ステイリー氏から誘いを受け、急成長を遂げる企業でスターチの作り方を学び、一生を捧げられる職に就く機会が訪れました。会社の運動部責任者になれば、野球もフットボールも、また自分が望めばバスケットボールの運営もできる。私に強いフットボールチームを作る機会が訪れたのです。私はすぐに飛びつきました。当時の給料は覚えていません。
 私は時間を無駄にせず、1920年3月28日にスターチの作り方と、ステイリー氏の模範的な人生を学び始めました。ステイリー氏は、良い商品は良い素材からのみ生まれると教えてくれました。また、どんな仕事にも万全の準備で臨まなければならないとも教えてくれました。彼の影響を受け、職業人としての道を歩き始めた私は、今でも歩き続けています。
 ステイリー・チームは成功を収めていましたが、職業としてのフットボールは成功していませんでした。基礎となる機構が必要だと感じていた私は、キャントン・ブルドックズの経営者ラルフ・ヘイに手紙を書いたところ、彼も同意見だと言ってくれました。ヘイはそのことで既にマシロン・タイガーズのスタン・コーフォールと会談を持っていました。会合はその後も続けられ、1920年9月17日、12の独立したチームがオハイオ州キャントンにあるラルフ・ヘイの自動車ショールームで会議を開いたのです。私はハップモービルのステップに腰を下ろしていました。全員、リーグが必要だということに同意し、2時間後、後にNFLと呼ばれることになる、the American Professional Football Association(APFA)が誕生したのです。
 新リーグの最初の任務はリーグ参加権を発行することでした。12チームにはそれぞれ100ドルの参加権料が必要とされましたが、どのチームもそんな大金は持っておらずその日には支払いがありませんでした。リーグ誕生と共に12チームと、未払いの1,200ドルの資本金が生まれたのです。リーグ会長にはジム・ソープが選ばれました。

リーグの基本構造
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 このリーグを私は今でも車輪のようだと表現します。1920年には我々は12本のスポークでした。しかし、スポークが有益な目的のために使われるにはリムが必要になります。1本のスポークは弱くなり、折れてしまうことがあるかもしれませんが、リムがあれば全体が崩壊することはありません。我々のリーグはそのリムの役割を果たす存在なのです。何事も共有するという信条がリーグの基盤となりました。この基盤を基に、プロフットボールが築かれ発展していったのです。この共有の考えはスポーツ界では前例のないものでした。
 60年にわたって続いてきた共有の一部をご紹介しましょう。

スケジューリング
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 競争がスポーツの活力の元です。プロフットボール創設当初は、各チームが対戦相手を選んでいました。そしてスケジュールはシーズン中ならばいつでも変えることができたので変更がしょっちゅうありました。当然、どのチームも集客力が一番あるチームとの対戦を望みます。その結果強いチーム同士だけが競うようになり、ジャイアンツ、グリーンベイ、ベアーズ(最も成功を収めた3チーム)が一番多くの対戦を望まれるようになりました。数本のスポークが弱くなり、車輪がぐらつき始めました。
 1941年、我々は各チームが個々にスケジュールを決める方法から、リーグ会議の席で加盟しているチームが翌シーズンのスケジュールを決める方法に切り替えました。しかし、結果は同じでした。ベアーズも強いチームのみとの対戦を望み、他のトップチームも同様でした。このシステムでは何も変えられなかったのです。ぐらついた車輪は良いチームにとっても、悪いチームにとっても長続きする助けにはなりませんでした。
 ここで必要だったのは公式スケジューリングでした。加盟チームはリーグ会長(コミッショナーという役職は1941年まで存在しなかった)にスケジュールの編成を任せることを承認しました。リーグのスケジュール決定方法は1957年に正式に決められ、これは現在でも使われています。この行動によって各チームが行う試合と同様、シーズン全体がファンにとっての楽しみとなったのです。ファンの興味が増したことが各加盟チームを安定させる結果にもつながりました。共有の精神がぐらついたスポークを強化し、車輪がよりスムーズに回転するようになりました。

ドラフト
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 選手の獲得を含む各チーム間の競争が、他のより劣るチームを苦しめていました。強いチームは選手を引きつける資金力を持ち、選手たちも自然と裕福で強いチームに入りたいと望んでいました。弱いチームは余った戦力を獲得するしかありませんでした。
 結果、強いチームはより強く、弱いチームはより弱くなってしまいました。車輪は危険なほどぐらつきます。何本かのスポークが極度に弱まり、リムの支えも危うくなってしまいました。聞き覚えのある状況ではないですか?
 加盟チームは会議を開きました。ドラフトシステムが提案されたのです。その中でいちばん失うものが大きかったのはジャイアンツのティム・マーラと私でした。しかしティムと私はドラフトシステムを熱心に支援し、1936年に我々のドラフトシステムが正式に始まったのです。方法は単純でした。最下位に終わったチームが翌年のドラフトで最初に指名する権利を持ったのです。ドラフトはチームの将来の発展と安定において、重要な役割を果たしました。ドラフトシステムによって競争力は高まり、これによって観衆が増えて各チームの利益が増し、選手に高額の給料を支払うことも可能になりました。また、NFLのチームを新たな都市に紹介することでリーグの活動範囲も広がりました。ここでもまた共有の信条が各チームの存続を支えたものです。

レベニュー・シェア
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 チームの財政問題については40年以上一時凌ぎをしていたシカゴ・ベアーズでの私の意見に限らせていただきますが、それでも大多数の加盟チームが同様に持っている財政状況をお話しすることになると思います。
 リーグ発足後もプロフットボールとその未来に対する私の信念は変わることはありませんでした。ありがたいことに、フットボールは金がかかるという不変の事実を常に思い知らされていたため、私の信念は揺らぎませんでした。
 1920年10月1日、ステイリー氏は私を彼のオフィスに呼び入れ、アメリカ全体、そしてもちろん彼の会社にも影響をもたらしていた景気後退について話しました。そして不況のため、チームの損失をこれ以上補うことができないと言いました。そして彼は大都市だけがプロフットボールチームを支えることができると言い、次に彼の口から出た言葉が私のプロ生活を歩む道を決めたのです。「ジョージ、チームをシカゴに移してみないか?」更に彼は援助資金として5,000ドルを私にくれると言ってくれました。自らもあれこれ問題を抱えているのに、私と私の将来まで気遣ってくれていたのです。その時私は、この心遣いがシカゴ・ベアーズの基本に、そしてプロフットボールの根幹になると感じていました。これこそが我々の信条となった共有の精神でした。
 私はシカゴに戻りました。ステイリー氏は1年間チームの名称をシカゴ・ステイリーズにして欲しいと言い、その後のチーム名を何にするかは私に任されました。彼がひとつだけつけた期限無しの条件は、チームがフィールドの中でも外でもステイリーの名声を表すような振る舞いをすることでした。私はこれをチームのルールとし、このルールは現在も変わっていません。
 シーズンを経るごとに熱狂が増し、フットボールの質が向上しました。同時にシーズン終了時には毎年、財政問題が山積みになっていました。私はシーズンが始まる時期になると借金をして、ベアーズの沈没を防いでいました。この状況は1955年まで続きました。
 ベアーズに対して私が持っていた信念には限界がありませんでしたが、私は人間の世界にも限界があると思っていませんでした。チケットの売り上げは毎年伸びていましたが、チームの運営費用は常に収入を上回っていました。借金を続けていた当初、私には保証するものが何もありませんでした。担保は自分の言葉だけでした。正式な文書すらない暗示による担保です。毎シーズン、私は借金を返すと約束し、その約束は毎年必ず守りました。
 人生の中で3度、ベアーズの資金調達のための他の方法を考えました。一つは不動産。株も試してみましたが、株式市場があっという間に崩れ、この試みはあっけなく終わりました。また、クリーニング業界に一部出資し、宝石と運動用品のカタログビジネスの利権も半分持っていましたが、これらは数年間ベアーズの助けになる程度で終わりました。私は選手たちに借用証書を渡し、時には対戦相手にも借用書をださなければならないこともありました。私の妻は私と結婚する前、持っていた700ドルの
貯金全てを自由国債に換えました。ある時は彼女がその国債をも現金に換え、ベアーズのために私にその現金を渡さなければならない状況にまでなったこともありました。私は自分の息子や娘の貯金箱を空にしたこともありました。それでも私は妻や子供たちに金を返し、全ての借金を返済しました。ベアーズの運営を保つための苦難の日々は続きました。そんな中、1947年テレビ中継が始まったのです。
 当時シカゴ・トリビューン紙に勤めていた故ドン・マックスウェルがフットボールの利益のためテレビを開拓しろと私に強く勧めましたが、テレビが我々の財政状況にもたらす影響の大きさなど当時の私には想像すらつきませんでした。
 最初に私は数試合のホームゲームを中継してもらうため、地元テレビ局に金を支払いました。そしてスポンサーがつき、ひと試合につき900ドルを我々に支払ってくれました。これで損益なしです。1951年、ベアーズはドゥモント・ネットワークと契約し、損失を出しました。1952年にはABCと契約していくらかの利益を生みました。ここでテレビ中継は財政の助けになると思い始めたのです。1953年からテレビ中継権がABCとCBSによって買われ、ベアーズにはシーズンを通しての収入が保証され、私の財政プランにも明るい見通しができました。
 しかし歴史は繰り返します。弱いチームにテレビ局は興味を示さなかったのです。私はテレビこそベアーズの生命の源だと思っていました。また、チーム間の競争がなければ、テレビ業界のフットボールに対する興味はすぐに薄れてしまうとも感じていました。またもや車輪がぐらつき始めたのです。
 我々はリーグに助けを要請し、大きなステップが踏み出されました。1961年、リーグの試合を中継する契約をコミッショナーがテレビ局と交わしたです。しかしこの契約は以前に裁判所が下した判決に背いているとの判断が下され、契約を履行することができなくなりました。ところが当時上院議員だった故エヴェレット・ダークセンをはじめとする先見の明ある議員たちが例外を認め、ネットワークとの契約を合法とする法案が可決され、故ジョン・F・ケネディ大統領がこの法案にサインしました。そして交渉が始まり、契約が交わされ、収入は加盟チーム間に公平に分配されました。新たな財政時代が始まったのです。テレビによって私が毎年抱えていた財政問題が解決し、他のチームの問題もなくなりました。
 我々はファンの興味を引き、我々の存続につながる地域間の競争も活性化させました。ここでもまた、共有の信条が加盟チームに利益をもたらしたのです。

NFLのビジョン
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 私は以下の考えを後世に伝えたいと思っています。
 私はステイリー氏が私に寄せてくれた信頼を全うすることを人生の目標にしてきました。同時に私は我々のリーグの根本となる戒律とその根拠を存続し、守る試みもしてきました。リーグを発足させた12人の男たちはリーグに対し、大志と夢を持っていました。我々は、我々の基礎であるリーグの基本構造を守った場合にのみ、夢を叶え志を実現できることを知っていました。
 私は持てる全てのエネルギーをプロフットボールに注いできました。他のどんな事業にも注意を向けず、どの職業仁も時間を割くことはありませんでした。第二次世界大戦後に市民生活に戻った時、シカゴ・トリビューン紙の全面的なバックアップで議員選挙に出るよう要請されましたが、それも断りました。私の仕事であるベアーズ、そして我々のNFLでの責務から去ってしまうことはできませんでした。
 60年が経ち、我々はみにくいアヒルの子から威厳のあるワシへと成長しました。共有の精神と過去から現在に至るまでリーグの発展に寄与している人々が、1本のスポークよりもリムが重要であることを熟知していることでワシの荘厳さが増してきました。
リーグの内外で反発する意見が聞かれることは過去だけでなく現在もありますし、これからもなくなることはないでしょう。しかしこれらの意見は60年間かけて築き上げられたものを崩壊させてしまいます。意見のいくつかは全くの身勝手から出され、その他の意見も理解度が低いものです。これらの否定的な意見が世間やファン、そして地域社会の興味を引くことはありません。
 私の両親は人が持つ品位と仕事が報いられ、自由の旗の下で一生を送れる国で人生を過ごすためにボヘミアからアメリカに移住してきました。兄弟と共に私は、この国が与えてくれる全てのチャンスを活かすよう教えられました。
 ナショナル・フットボール・リーグは発足も、現在継続しているのも偶然ではありません。我々のリーグでは昔も今も、勤勉さ、計画性、試行、そして堅実な経営が求められています。我々のリーグは今後も発展を続け、存続するのに充分な方針を持つ地域にプロフットボールを紹介していくことでしょう。


NFLは現在も、TV放映権、スポンサーシップ、マーチャンダイジング、入場料などからの収入を全て平等に32チームに共同分配する、レベニューシェア・システムを取っている。特にTV放映権は大きな割合を占める。NFLはレギュラーシーズン中の全試合、スーパーボウルを含むプレーオフ全試合の放映権を一括して扱う。そのため、ニューヨークなどの大きな市場にあるチームも、グリーンベイなどの小さな市場にあるチームも同じようにチームの運営を行うことができる。
また、チームは年間で選手の給与支払いに当てられる金額を決められており<サラリーキャップ制度>、あるチームだけが飛び抜けていい選手を集められるということを防止している。ドラフトでは7巡全てで前年度の成績が悪いチームから指名を行う。
近年、前年度の下位チームがスーパーボウルに優勝したり、毎年プレーオフに出る顔ぶれががらりと変わるなど、ハラスの語った平等の精神はリーグ創設以来変わることなく続いている。

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